家族への手紙
by orsomare


9.11


10年前の今日のことを書いてみようと思う。

朝、彼が路上駐車していた車を動かすために外へ出た。
路上清掃のため、その日は朝9時までに車を車道の逆側に動かさないといけなかった。
私は出勤の用意を始めていた。

外へ出た途端、彼が駆け戻ってきた。
「ワールドトレードセンターが燃えてる!」 burningじゃなくてsmokingって言ったと思う。煙が出ていて、まさか飛行機が追突しているとは思いもよらなかったんだと思う。

彼のアパートは、その直後に閉鎖地域になった Houston St から数ブロック北のlower East地区にあって、窓からワールドトレードセンターが見えた。とにかくテレビをつけてみようと、いつもは映画を見ることにしか使わないテレビのケーブルを繋げてテレビを点けたところで、2機目がぶつかった。

そのときなにを話したかはあまり覚えていないし、たぶん私はなにも特に言わなかったと思う。
びっくりして真っ白になった数秒か数分か後に現実に戻って、仕事に行かなきゃ、と言った。

とにかく仕事に行かなきゃいけない。行ってくる。
ばたばたと慌てて、動揺している彼を置いてアパートを出た。階段を下りている途中で彼が追いかけてきて、気をつけて、とものすごく真剣に言われた。後で、もう2度と会えなかったらどうしようと不安になったんだと言っていた。

通りでは歩道に人が立ち止まり、皆そろって同じ方向を見上げていた。
ワールドトレードセンターは煙をあげて、でもまだ立っていた。崩れてしまうなんて、思いもしなかった。

いつもはバスで通勤するんだけど、とにかく急いでいたので信号待ちしていた乗客の乗っているタクシーに無理やり乗り込んでしまった。既に乗っていた乗客は若い女性で、出社するところだという。このときは状況が全然わからなかったし予想も出来なかったけど、なんとなく今日は出社なんかしないで家にいたほうがいいよと言ってみた。いやな予感がしたから。彼女の家は彼のアパートよりも南だったので、家にいるのも怖いしとりあえず会社に行ってみる、と彼女は言った。もう既に灰が降り始めていたのかもしれない。

私は当時、それまで数年派遣していたNHK NY総局から離れたばかりで、ビザをサポートしてくれていたプロダクションオフィスに席を移し、それまで関わっていた日々のニュースではなく番組制作に携わるようになっていた。プロダクションオフィスは国連のすぐ隣にあって、国連内に入りきらない小国のオフィスが沢山入っているビルの中にあった。タクシーで10分もかからなかったと思う。でも到着したときにはそのビルの周辺が既に閉鎖されていた。携帯電話はもちろん使えなかった。

とにかく、そこから歩いて20分くらいの場所にあるNHK総局へ向かった。その朝オフィスへ到着したのは、私が3人目だった。麻痺し始めた交通機関を掻い潜って出勤してくる局員たちの間で、死に物狂いで情報収集に励む中、センターが崩れたのをモニターで見たはずだけどそのことは覚えていない。
アルカイダの名前は割りとすぐに持ち上がってきた。初めてその名前を耳にした時のことはなぜかよく覚えている。そのことを教えてくれたリサーチャーの顔も覚えている。

お昼あたりに母からオフィスに電話があった。「大丈夫?」と聞かれて、一瞬意味がわからなかった。仕事に没頭していて普通のことは考えられなかったからだ。ニューヨークに自分が住んでいることと、ワールドトレードセンターで起こったことと関連性があるように思えなかった。最前線の情報を収集して、オフィスにぐるっと設置されている数台のモニターからは各局のニュースが常に目に入っているのに、どこかで非現実的な気がしていたからかもしれない。

当たり前だけど総局の動きは早かった。取材の足となるハイヤーを数台確保しオフィスの外に待機させ、常に食事が取れるようにお弁当やカップラーメンやスナック類が瞬時に用意された。旅行中の者も含めアメリカ中の記者・カメラマンがいろんな手段で集結され、あっという間に局内は騒然とし始めた。

その日彼のアパートに帰れたのは夜中を過ぎていた。数時間ベッドで横になって、またすぐ日が昇る前に出局した。もちろん局内に寝泊りしている記者たちもいた。私のアパートは、閉鎖されてしまった橋を渡った向こう側のクィーンズ地区にあったから、同じマンハッタン内の彼のところへ戻るほうが便利だったのもあったけど、たぶん1人になることは考えられなかった。

そういう日が1週間ほど続いた。
彼はカメラマンだったのだけど、ニュースには関わっていなかったしそうすることを拒んでもいたので、親友と日々街を彷徨い献血やボランティアの列に並んだりして、多くのニューヨーカーがそうだったようになにかしたいけれどどうしていいかわからずに不安とストレスを抱えて過ごしていた。

私は機械的に仕事に打ち込むだけで、自分の気持ちを誰とも共有することが出来ずに、眠るときだけ隣にいる彼ともぎくしゃくし始めていて、孤独だった。

見つかった遺体の数や、飛行機のかけらや、与えられた被害の大きさを計って情報にする日々が続いた。
取材にも出かけた。車の規制があったから、カメラマンと二人で荷物を持って、グランドゼロ付近を歩き回ったりもした。9月のニューヨークはまだ暑かった。

そしてある日取材で歩き回っている途中、道端に黒こげになっている車を見て立ちすくんでしまった。
突然泣き出して止まらなくなった。センターが崩れたとき放った火で放火し、丸焦げになって、でもそのまま放置されていて、無力で、救いようがなくて、でもどうしようもない事実だった。どうしていいかわからなかった。
カメラマンを手伝って、三脚を担いでいたのを覚えている。

オフィスに戻ってプロダクションの社長と話をした。
二人で話せるように社長が車の中で話をしてくれた。もうできない、というようなことを言ったと思う。
私には報道する使命感のようなものがなくて、こんなときは悲しむことしかできない。情報を集めてニュースにして、被害者に意見を聞くことが出来ない。仕事を投げ出して、一緒に行方不明者を探して、それも出来なければせめて一緒に泣きたいとさえ思った。私にはできない、したくないと言ったと思う。
社長は、わかった、とにかく家に帰っていいよと言った。

しばらくぶりに自分のアパートに帰った。
その日、なにをして過ごしたのか覚えていない。
次の日の朝、テレビでニュースを見たら当時の市長であるジュリアーニが記者会見に出ていた。ジュリアーニは言った。テロというのは、通常の生活を一般市民から奪い、脅えさせることだ。だから私たちはそれに屈しず、打ち勝たないといけない。We have to go on with our lives.

あまりにも単純すぎて恥ずかしいけど、私はその言葉に励まされた。
そうか、そうだ、じゃあやらないと。暗い中電気がパチッとついたように、単純に思った。
社長が電話に出なかったので、当時のNHKのチーフプロデューサーに電話をして、戻りたいと伝えた。
今思うとあまりの子供っぽさに情けないけど、やさしく、じゃあ待っているから早く戻ってきなさいといってくれた。

それからも、遺族や、「行方不明者」を探している人たちにマイクを向けたり、グランドゼロが良く見える中継場所を確保したりして過ごした。

彼とは気まずい日々が続いて、当時のブッシュ大統領をめぐって大喧嘩になったりもした。
怒りを前面に出すことだけに長けているように見えたブッシュ大統領とそれに賛同する国民に恐怖を感じた。
こんなとき、悲しんだり、怒りを感じたりの個人差ってあるんだと身をもって学んだ。アメリカ人の彼と、そうでない自分の違いを歴然と感じたりもした。いつまでたってもグランドゼロは燃え続け、煙がのろしのように空にあがって、どこへ行ってもそれが目に入って胸が苦しかった。NHKの人たちは、その数年前にペルーのリマで起こったテロによる日本大使公邸占拠事件をよく引き合いに出して話をしていた。

グランドゼロに張り巡らされた金網に、大きな日本の旗がかかっていた。
日本の遺族たちが渡米したときのものだ。
書き込みが沢山してあって、「パパ、また会いにくるからね。」と書いてあった。

死に物狂いで、遊びもなにも2の次にしてがんばったニュース製作に携わる5年間だった。
でも今は、ロサンジェルスに住んで全く無関係の仕事をしているし、今後も製作に関わる仕事をすることはない。

10年前だなんて、信じられない。
一生忘れない。一生かけて考えたい。

6ヶ月前の今日も、このことを思い出してパニック状態になった。
でも私は誰も失っていない。
そんな私が力になれますように。
次にこんなことが、全ての人が無力に感じるとき、少しでも力になれますように。
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by orsomare | 2011-09-12 17:27
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